金髪でロン毛。そして肌が黒い男性トレーナーに、92歳の女性・川崎さんが軽快にパンチやキックを打つ動画がTwitterで話題になった。川崎さんは数年前まで歩くことに困難を抱えていたというが、今ではキックボクシングを楽しむまでに回復している。一方のトレーナーは、元J-NETWORKライト級1位の実績を持つキックボクサー・生井宏樹氏。生井氏が代表を務める接骨院『Palledo』に川崎さんが施術で通い始めると、トレーニングの一環としてキックボクシングの動きを取り入れた。

激しい運動ではあるが、生井氏はキックボクシングを“生涯スポーツ”と位置づける。その言葉の通り、2年前に移転したジムスペース『PEACE PACE』も併設する接骨院には、十数名のシニア世代が通う。生き生きとした笑顔であふれる彼ら彼女らの姿と、「何かを始めるのに年齢は関係ない」という言葉が重みを増す。「これからはシニア世代がキックボクシングを楽しむ時代になっていきます」と話す生井氏に現在の取り組みを伺い、さらにシニア世代の方々からもキックボクシングの魅力を尋ねた。

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シニア世代がキックボクシングをすることは予想していなかった

2017年に接骨院を開業。その際に自己紹介のつもりで、メニューの一環にキックボクシングのパーソナルメニューを作った。基本は施術がメイン。キックボクシングに興味を持つ人はいなかったが、1年過ぎた頃から少しずつ「やってみたい」とリクエストを受けるようになった。すると、70代の方からも同様にリクエストを受けたという。

「当初は頭の中に、シニア世代がキックボクシングするという想定はまったくなかったです。でも、運動強度を合せればできるかなと思い、始めてみました。」

トレーニング動画をSNSにアップすると、予想を上回る大きな反響があった。そして、動画を見て来院するシニア層も増えてきたそうだ。今では最高齢92歳の女性が通うが、生井氏は「70代はここでは若手ですよ。ギャルです。」と笑顔で話す。

シニア世代、キックボクシングを始めたキッカケと魅力

92歳の川崎さんが通うきっかけになったのは、股関節の施術だった。「キックボクシングは楽しいですよ。技を覚えられると褒められるから嬉しい」と微笑む。グローブを着けると、生井氏と息の合ったミット打ちを見せてくれた川崎さん。攻撃だけでなく、しっかり腕を上げて防御をする。1ラウンド1分30秒を息つく間なく前進し続けた。対人練習では生井氏にフック、アッパーと多彩なコンビネーションを間髪入れず攻め続け、その姿からは数年前に歩行に困難を抱えていたとは思えない。

87歳の渋佐さんは、2023年に入ってから通うようになった。このジムに通う71歳の黒崎さんに、「良いトレーニングになるから」と誘われたことがきっかけだ。キックボクシング に対して「黒崎さんがすごく良いとおっしゃるから、躊躇することはありませんでした」と話す。キックボクシングをする渋佐さんの姿を見た孫からは、「おばあちゃんかっこいい」と言われたという。何事にも前向きに取り組む姿に、お嫁さんも「私もやろうかしら」と会話になることが多いのだとか。渋佐さんは、「死ぬまで元気でいたいからキックをするわ」と目を輝かせる。

黒崎さんはデイサービスの職員として働き、そこに通う渋佐さんに「いつまでも元気でいてほしいから」と声をかけた。

「シニア世代は、座っている時間が長い人が多いんです。だから、背骨がつぶれたように折れてしまう圧迫骨折をする人も少なくありません。それに、運動していると言っても散歩くらいになってしまいます。でも、キックボクシングは足を上げたり、腕や背中の筋肉を使ったりするので、それがすごくいいんですよ。」

71歳の黒崎さん自身も、技を磨く探究心から日々、キックボクシングの試合の動画を見て学んでは練習に生かしているという。黒崎さんのジムに響き渡るパンチ音には、周りも驚くほどだ。キックボクシングは頭を使うが、それが楽しいのだと話す。こうした声を受けて、生井氏はキックボクシングがシニア世代に向いている要素を次のように挙げた。

「キックは片足立ちになることでバランス感覚を養います。また、指示された場所にパンチやキックを打つので、脳トレにもなると思っています。特に転倒には気をつけていますが、ゲーム性もあり楽しくできるんです。」

生井氏が柔道整復師の資格を持っていることも、シニア世代が通いやすい条件だった。そして、パーソナルトレーニングとして直接指導を受けられるのも、周囲の目を気にすることなくできたという。ジムではさまざまな職業の人と出会うことができ、シニア世代の方々は若い人たちとの交流も楽しんでいる。そして、全員が口を揃えて生井氏が褒め上手だと話し、「いくつになっても褒められるのは嬉しいわよね」と顔を見合わせた。

人間の気力は自然に簡単に落ちる

川崎さんは「これからもずっと健康でいたい。ここに来られるようでいたい」と話す。今でこそ健やかな姿を見せる川崎さんだが、一時期気力が落ちたときがあったのだとか。そのときの様子を、生井氏は次のように述べた。

「キックへの意欲もなくなり、ネガティブなことを言うことが多くなった時期がありました。キックボクシングの代わりに、一緒に散歩へ行ったり買い物に行ったりしましたね。そのとき、年齢を重ねると、気力は自然と落ちていくこともあるのだと思ったんです。むしろ、その落ちていく気力に抗って気力を保ち、元気にここへ通っていること自体が凄い。シニア世代の方々がキックボクシングすることに敬意を持って接していましたが、改めてその凄さを実感しました。」

雑貨屋めぐりや買い物など、川崎さんに寄り添い続けた生井氏。3ヶ月過ぎた頃、本人の口から「また、やってみようかな」という言葉が出た。どんなきっかけで気力が回復したのかは分からない。しかし、自然体で寄り添い続けた生井氏が、川崎さんの「何かしらの力」になったのは確かだろう。

キックボクシングが「生涯スポーツ」となる一端を担う

生井氏が接骨院を開業したのは、大きな志があったからではない。選手時代、先輩から資格を取った方がいいとアドバイスを受けた。キックボクサーなら身体のことは知っておいた方がいいと思った生井氏は、柔道整復師の資格を取るため学校に通い始めたのだという。資格取得後は知人の院で働いていたが、その院がなくなることに。そこで、それなら自分たちでやろうと考えて2017年に開業。当時は「3ヶ月で潰れる」と言われたそうだが、2023年4月で開業6年目を迎えた。

「白衣は着ていないし、こんな身なりでうさんくさいって思うじゃないですか。でも、これは自分の個性。腕には自信がありました。」

そう、自慢の金髪を触りながら振り返る生井氏。その確信は実績とともに実を結んでおり、今では幅広い世代の方々に親しまれる憩いの場所となった。

「10年前の自分たちがキックボクシングをしていた時代、女性で取り組んでいる人は多くありませんでした。でも、今では多くの女性がキックボクシングをしている。これからは、シニア世代がキックボクシングをする時代になると思っています。いくつになってもできる、生涯スポーツになっていくでしょう。最近は、その一端を担っている自覚を持つようにしました。そうすることで、多くのキックボクサーたちが、シニア世代のパーソナルトレーニングを仕事としてできるようになる。恩返しと言ったら大袈裟ですが、格闘技界に少しでも恩返しできるのではないかと思っています。」

選手時代は練習が厳しく、きついことも多かった。しかし、礼儀マナーや言葉づかいなど、若い時代にたくさんのことを教えられたのもキックボクシングだったという。生井氏に「選手時代と今はどちらが楽しいか?」と尋ねると、「今ですね」と笑って答えてくれた。

生井氏とシニア世代の女性たちを見ていると、素直に「みんな楽しそうだな」と感じる。もちろん、キックボクシングの競技そのものの魅力はある。一方でキックボクシングの領域を広げ、これからもその可能性に満ちているのは、生井氏の人柄が大きいだろう。目の前の人を喜ばせ、笑顔にするために、休む暇なく持てる力を尽くす。Twitterで日々アップされる動画も、営業時間を終えてから生井氏自身が編集作業をしているのだとか。人間の気力は自然と落ちていくもの。だからこそ、そこに抗う人たちへ自然と湧いてくる尊敬の思いを抱き続け、通う人たちを迎えている。

生井 宏樹  (ナマイヒロキ)

元キックボクサー・柔道整復師。日本大学を卒業後、専門学校で柔道整復師の資格を取得。19歳からキックボクシングをはじめ、2008年に新人王獲得。元J-NETWORKライト級日本ランキング1位。23歳からキックボクシングの指導をはじめ、並行して接骨院に6年半勤務。2017年4月に独立し「接骨院Palledo」を開院。リハビリの延長で、キックボクシングを薦めていく。
2021年にはキックボクシングジム「PEACE PACE」を開設。

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By たかはし 藍 (たかはし あい)

たかはし 藍(たかはし あい) 元初代シュートボクシング日本女子フライ級王者。出版社で漫画や実用書、健康書などさまざまな編集経験を持つ。スポーツ関連の記事執筆やアスリートに適した食事・ライフスタイルの指導、講演、一般向けの格闘技レッスン等の活動も行う。逆境を乗り越えようとする者の姿にめっぽう弱い。

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