ラクロスは17世紀、北米の先住民族が催事や鍛錬のために行なっていたものをスポーツ化したのが始まりだ。そのとき使用していた道具が僧侶の持つ杖に似ていたことから、「ラクロス」と呼ばれるようになったのが起源だと言われている。

そんなラクロスを大学生から始め、日本代表の一員として3大会連続でワールドカップに出場した水田裕樹選手。2014年大会では日本代表のキャプテンを務め、39歳となる今でも第一線で活躍している。

水田さんはラクロス選手でありながら、高校教員という顔も持っている。その両立は想像しただけでも大変そうだが、2つのことを全力で取り組んでいるからこその相乗効果があり、ラクロスをやっていることが教員の仕事に生きているそうだ。水田さんはこれまでどのようなラクロス人生を送り、今後に向けてどんな目標を持っているのか。ラクロスと教員との両立や、今でも現役であり続ける理由について伺った。

目次

バスケットボールからラクロスへの競技転向

ラクロスは直径わずか6㎝、重さ150gのボールをめぐり展開される、フィールドの格闘技だ。クロスと呼ばれる先端に網のついたスティックを用いてボールを奪い合い、180㎝四方のゴールをめがけてシュートを打ち合う。アルミニウム製のクロスによるチェックと、ハードなボディコンタクトがある激しいスポーツだ。

水田さんがラクロスを始めたのは、大学1年生の18歳のとき。小学校から高校までバスケットボールに打ち込んでいたが、進学した日本体育大学には全国から優秀な選手が集まっており、自分の実力を考えると一軍に上がることは現実的ではなかった。そこで、新たに目をつけたのがラクロスという競技だったという。

「当時、違う大学の先輩がラクロスをやっていたので、ラクロスという競技があることは知っていました。基本的に大学生から始めている人が多いスポーツだとは聞いていたので、それなら自分だって、今から始めても上のカテゴリーに行くチャンスがあるのかなと思って始めました。競技の特性やルールもわからない中で体験入部へ行ったのですが、練習に参加したその日に入部することを決めたんです。全然やったことのないスポーツだったので、練習して新しいことができるようになるのが楽しかった印象が凄く残っています。見たことはあったのですが、実際にやるのは初めてだったので、パスできたりキャッチできたりというのがすごく楽しくて、もっと練習してみたいなと思いました。」

体育大学として有名な日本体育大学でも、ラクロス部は大学から始める人がほとんどであり、初心者に対するウェルカムな雰囲気があった。だからこその入りやすさもあり、同級生も全員が大学からラクロスを始めたメンバーだったという。

ラクロス部は各学年20人ほど、4年生まで合わせると100人近くという部員数の多さ。大学から始める競技ではあるが、部内でもしっかりとした競争があり、試合に出ることは決して簡単なことではない。それでも、水田さんがラクロスに挑戦することを決めたのには理由があった。

「練習して少しずつできるようになっていくのが楽しかったことと、大学生から始めても日本代表になれる可能性があったからです。先輩から言われた、上級生や社会人になったときに日本代表になれる可能性があるという誘い文句に乗せられましたね。バスケットボールだったら、自分の実力的で日本代表になるのは無理そうだとわかっていました。でも、ラクロスなら目指せるかもしれないと知り、面白そうだなと思ったんです。」

スポーツを本格的にやっている人であれば、誰もが日本代表に憧れることだろう。水田さんもまた、バスケットボールをしていた頃から目指していた場所だった。バスケットボールで叶えられなかった日本代表という夢を、改めてラクロスという競技で果たしたいという気持ちがあったようだ。

試合に出続けたことで得た自信

大学生から始めることが多いラクロスで、1年生から試合に出ることは難しい。それでも必死に練習に取り組んだ水田さんは、2年生の頃にトップチームのベンチ入りを果たし、初めての試合出場を果たす。

「そのときことは、全然覚えていないですね。とにかくミスしないよう、がむしゃらにやっていた記憶があります。」

3年生になると、レギュラーとして自分のポジションを掴み取る。部員数も多い中、必死に努力してポジションを勝ち取ったのだ。ラクロスは交代が自由なため、たとえスターティングメンバーに入らなくても、1つのセットに入ると試合に出場することができる。

「試合に出場し、学年別の関東選抜にも選出してもらいました。少しずつ自信がついてきて、もっと頑張ってやれば、日本代表という可能性も出てくるのかなと思っていました。」

試合に出場し続けることで、自分の中で「やれるな」という感覚を持つことができたという水田さん。3年生時には世代別のU-21日本代表に選出され、夢への第一歩を踏み出した。世代別の日本代表に選出されたその年は、フル代表のワールドカップが行われる年だった。

「大学時代、フル代表には全然声が掛からなかったですね。その年のワールドカップが行われる前に、国内で海外チームとの親善試合がありました。そこで日本代表が勝利している姿を見て、自分もあの場所に立ちたいなと思ったことを覚えています。」

世代別の日本代表に選ばれ、さらにフル代表の親善試合を間近で見たことで、水田さんの日本代表への想いはさらに強くなっていった。大学卒業後はさらに高みを目指し、日本代表へ選出されるという目標を達成するために、社会人のクラブチームに所属することを決める。

「当時、自分の大学の先輩が多く所属していたFALCONSというチームに入りました。FALCONSには歴代の日本代表選手もいますし、素晴らしい選手が多かったので、そこに入って自分ももっと上手くなりたいと思っていましたね。大学の部活を引退後、在学中から練習に参加させてもらっていました。」

日本代表としてワールドカップへ

2008年の3月に大学を卒業し、2009年に初めて日本代表に選出された。ラクロスの日本代表は選抜選考会という練習会を何度か行い、そこで選ばれたメンバーが正式な日本代表として活動していく。念願の日本代表に選出されたわけだが、最初の感想は意外なものだった。

「サッカーで言うと中盤に当たり、攻めも守りも両方やるポジションでした。ラクロスでは短いクロスを使っていたのですが、日本代表に選ばれた際、ディフェンスをやってほしいと言われたんです。ラクロスのディフェンスは、短いクロスの倍くらいある長いクロスを使います。ですから、普段からやっていないとできないポジション、練習していないと扱えないクロスです。それまであまりそういう選手はいなかったので、コンバートされたときは正直驚きました。」

前例のないことであり、多少の戸惑いはあった。それでも、日本代表の活動に参加できるということで「やるしかないな」と思い、新しいポジションへの挑戦を決意。しかし実のところ、このコンバートには明確な理由があった。

「中盤でやっていた運動量や動きを、一線下のポジションからやってもらいたかったからポジションを変更したというのを、後々になって聞きました。当時は訳も分からず、練習に必死になっていましたね。」

日本代表として初めて戦った試合は、2009年のオーストラリア遠征だった。日本代表の一員として国際試合に出場し、試合前に国歌を聞いたときには、自身が代表選手になったことを強く感じることができたという。

「やはり、試合前に日本の国歌を聞くと、国を背負っているという大きな実感がありました。それまでは『君が代』もなんとなくある国歌というイメージだったのですが、日本代表になって他国で聞くと、すごくじんわりきますし感動しましたね。」

水田さんは25歳の2010年に、初めてのワールドカップ出場を果たす。ラクロスを始めたときに立てた日本代表に入るという夢を叶え、ワールドカップに出場することもできた。しかし、そこで満足したわけではなく、新たな目標への気持ちが産まれる。

「初めてのワールドカップは若手だったこともあり、がむしゃらにやっていました。自分の中では、一度そういう舞台を経験したら満足するのかなと思っていたのですが、ワールドカップの2~3週間くらいがすごく楽しかったんです。終わったタイミングで、次のワールドカップにも行きたいという気持ちが芽生えましたね。」

その後、2014年、2018年と3大会連続での出場を果たし、2014年大会ではキャプテンを務めた。いずれの大会でも8位以上の成績を残し、日本代表は世界とも対等に渡り歩いている。

ラクロスと教員の両立

現在、日本においてラクロスのプロチームはない。それ故に、選手たちは仕事と競技を両立させてプレーしている。水田さんも大学卒業後は、仕事をしながらラクロスを続けていた。

「もともと教育系の道に進みたいと思っていたので、最初は非常勤で教員をやりながら、それだけでは収入が少ないので、他にもアルバイトして練習という形でやっていました。」

もちろん、正教員や正社員になるという選択肢もあった。しかし、個人でのトレーニングや自主練習など、ラクロスにかける時間を作るために、あえて時間の融通がきく非常勤講師とアルバイトを選択したそうだ。

「平日のチーム練習というものはなかったので、グラウンドを予約して練習したい人をとにかく集めて練習したり、母校である日体大の朝練習に行かせてもらい、学生と一生に練習したりしてコンディションを整えていました。」

約6年間この生活を続けていたが、2014年には非常勤講師ではなく、正教員として私立高校で働き出すことに。それには、2つの理由があった。

「非常勤講師のときは通常の授業を自分でやるというより、先生のサポート役のような形でした。それも当然勉強になったのですが、だんだん自分で授業をやりたいと思うようになったんです。それに加え、ラクロス部を作りたいなという気持ちもありました。」

自身が競技者として高みを目指す中、もう一つの目標として学校にラクロス部を作り、指導に当たりたいという気持ちが芽生えていたのだ。私立高校を選んだのは、新たな部活を作るというハードルを考えてのことだった。

「ラクロスをやっていて、とても色んな経験をさせてもらいました。そういった自分の経験を、教員として子どもたちに伝えられたらいいなと。正教員になったことで仕事の比重は上がり、これまでとは違った責任が生まれるなど、ラクロスにかけられる時間は以前よりも少なくなりました。非常勤講師とは違って常に学校にいなければいけないので、朝に参加していた大学の練習には、もちろん行けません。放課後も生徒指導があり、当然ながら部活動もあるので、自分を高めるために使える時間は減りましたね。そこが、大変な部分かなと思います。」

しかし、大変なことだけではない。ラクロスをやっていたことは教員や指導者として仕事に活かせる部分もあり、その両立がプラスに働いている。

「試合への向かい方や日々の取り組み方、あるいは海外での競技を自分が体験していることで、説得力のある話ができます。また、そういう経験があればこそ、生徒たちに色々と伝えられるのかなと思います。」

第一線でプレーを続ける理由

最後に、水田さんが競技する中で感じている、ラクロスの魅力について伺った。

「競技的なところで言うと、攻守の切り替えが激しくてガンガン身体をぶつけますし、得点もたくさん入るのが魅力だと思います。また、ラクロスを通して、人同士がすごく繋がりやすいことも感じますね。チームが違っても練習で行き来するというのは、他競技にはない特徴ではないでしょうか。」

2018年のワールドカップを最後に日本代表に招集されなくなり、今年で39歳となる水田さんだが、今もなお第一線でプレーを続けている。スポーツの世界では、30歳を越えると「引退」の文字を意識し始める選手が多い。しかし、そんな中でも水田さんは、まだラクロスをやめるつもりはない。

「一人の競技者として上手くなりたい、強くなりたいという気持ちは、今も昔も変わらずにあります。チームには上手な選手が多くいますが、チーム内競争に勝って試合に出たいと常に思っています。代表には呼ばれなくなってしまいましたが、チームとして優勝したいという気持ちと、自分が最前線で競技することにより、そこで学んだことを指導する子どもたちに還元していきたいという思いがあります。」

何よりもラクロスが好きで、競技者としてさらに上を目指すモチベーションがある。それに加えて教員という仕事をしていること、ラクロス部の顧問として子どもたちに指導していることも、競技を続ける大きな理由になっているようだ。

「いつまで高いレベル感でやれるのかは、ある意味で自分の中での挑戦だと思っています。年齢が上がれば体力的に厳しくなりますが、まだ若手に負けないようにプレーしたい。また、先生という仕事以外にも一生懸命やっているものがあるということを、自分が受け持っている生徒たちに見せたいという気持ちもあります。」

プロスポーツ選手として競技に専念することもスポーツ選手の一つの形だが、そうではない関わり方もある。水田さんにとっては、ラクロス選手と教員の二つを両立することが人生の生き甲斐となっているのだろう。ラクロスを通して経験してきたことを、教育の現場で子どもたちに還元していく。ラクロスという競技の魅力を、選手と指導者の両方で伝えていく。水田さんのこれからの活躍にも期待したい。

水田 裕樹(みずた ゆうき)

日本代表として3大会連続でのワールドカップ出場経験を持つラクロス選手。 小学校から高校までバスケットボールをプレーしていたが、大学からラクロス に転向した。大学卒業後はクラブチームで選手を続け、2009年に初めて日本代 表に選出される。2014年のワールドカップではキャプテンを務めた。現在も現 役選手として、そして高校の体育教員とラクロス部の監督として活躍している 。

By 渡邉 知晃 (わたなべ ともあき)

1986年4月29日生まれ。福島県郡山市出身。元プロフットサル選手、元フットサル日本代表。Fリーグ2017-2018得点王(33試合45得点)。プロフットサル選手として12年間プレーし、日本とアジアのすべてのタイトルを獲得。中国やインドネシアなど海外でのプレー経験もある。現役引退後は子供へのフットサル指導やサッカー指導、ABEMA Fリーグ生中継の解説を務め、サッカーやフットサルを中心にライターとしても活動している。

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