サッカー少年・少女たちの憧れであり、多くのファンから脚光を浴びるプロサッカー選手。しかし、そんな彼らが第一線でスポットを浴びていられる時間は、そう長くない。プロサッカー選手の平均引退年齢は26歳ほどと言われており、他スポーツと比べても選手寿命は比較的短い方だ。そのため、現役時代からセカンドキャリアに向けて、いかに早く準備をしていたかどうかが、その後の人生を幸せに送るための重要な鍵となる。

元サッカー日本代表の谷口博之氏は、現役1年目の頃から“第二の人生”を明確に描いてきた珍しい存在だ。現役時代は“そこにタニ”とい呼ばれ、その言葉通り、守備的な選手にもかかわらず多くの得点を重ねてきた。そんな谷口氏は2019年にJリーグの舞台を退き、現在は自らサッカースクールを運営している。現役を引退して約2年が経とうとしているが、果たして次は「どこに」向かっているのだろうか。セカンドキャリアで奮闘する谷口氏の素顔から、現在の取り組みに辿り着いた道筋に迫る。

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谷口少年の人生を変えた恩師への憧れ

現役引退後、子どもたちにサッカーを指導しようと志した谷口氏。その原点は、小学校56年生時代にある。意外にもサッカーとはまったく無関係な、担任教師との運命的な出逢いが影響を与えた。谷口氏はその先生について、「忙しいにも関わらず、自分の話をよく聴いてくれた。ダメ出しは全くせずに、自分を認めてくれる存在だった。」と話してくれた。

幼い頃から母子家庭で育ったため、大人と話す機会はそれほど多くなかった谷口少年。そんな中で、先生は心から信頼できる初めての大人だった。少年時代に親分のように慕った先生の存在は、彼のサッカーに対する向き合い方を大きく変えたという。谷口氏は当時を、「これまでのサッカー人生で、あんなに黙々と練習したことはない。ちょっとやり過ぎたかな(笑)」と当時を振り返る。このときから、サッカー選手として生きていこうと本気のスイッチが入った。

自分の人生を変えてくれた、担任の先生への憧れ。それこそが、引退後にサッカースクールを開いた原点となっている。さらに言えば、先生との出会いは谷口氏にとって幸運だった。大人への階段を登り始める小学校56年生。そのタイミングで出逢う大人は、ある意味もっとも大切かもしれない。

「自分が先生に出逢って人生を変えてもらったように、自身のサッカースクールも子どもたちの人生を変えるキッカケでありたい。」

そう熱く語る谷口氏の彼の指導者人生は、小学校56年生対象のサッカースクールとしてスタートした。

ルーキー時代から仕込んできたセカンドキャリアに向けた準備

2004年に川崎フロンターレでプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせ、複数クラブを渡り歩いた谷口氏。実はキャリア序盤を過ごしたフロンターレ時代から、すでに自らサッカースクールを経営するセカンドキャリアを思い描いていたと言う。それもルーキーイヤーの1年目や2年目、サッカー選手の夢を掴んで間もない段階から準備してきた。これはサッカーに限らず、指導者の道を志すアスリートの中でも珍しい例と言えるだろう。

「引退した後の人生も楽しみで仕方なかった。自分が思い描く引退後の人生が、サッカー選手としてのモチベーションにもなっていた。」

谷口氏はトレーニングの隙間時間を見つけると、サッカーの指導方法を解説した本や自己啓発の本をよく読んだ。さらに読書以外にも、サッカー選手以外の多くの人と会話したり、アドバイスを受けたりする機会を自らつくったと言う。そして最後にキャリアを過ごしたサガン鳥栖時代には、クラブのスクール活動を積極的に見学しに行っていたとのこと。スクール見学を通して、

「この広さでこれくらいの人数だと、子どもたちに精一杯指導できそうだな。」

「休む時間をなくして、常に動き続ける活動をしていきたいな。」

などと、自身の運営するサッカースクールについて具体的なイメージを膨らませていった。

セカンドキャリアを送るための情報は、常に転がっている。ただし情報にアンテナを張り続け、具体的にイメージを膨らませていくことがとても重要だ。それが早い段階からできていたからこそ、谷口氏は引退して半年も経たないうちに、自身でのサッカースクール経営にたどり着いたと言えるだろう。

選手生命を縮める大怪我。そこで湧き出てきた意外な感情とは

写真:谷口氏提供

川崎フロンターレ時代にはベストイレブン、2008年の北京五輪では日本代表に選出されるなど、Jリーグの中でも高いレベルでプレーし続けてきた谷口氏。しかし、そんな彼の輝かしいキャリアは、一つの怪我で大きく狂うことになる。サガン鳥栖時代の2017年、横浜・F・マリノス戦での体を張ったタックルで膝を痛め、結果的にこの怪我が彼の選手生命を大きく縮める要因となったのだ。それはセンターバックにコンバートされてから、やっと何かを掴みかけたタイミングでの大怪我だった。

普通の選手なら絶望していたかもしれない。しかし常にポジティブな谷口氏は、それでも前を向いていた。怪我からリハビリまでの生活を振り返り、谷口氏は次のように語る。

「選手としてやれることはやりつつ、引退が近づいていくことを悟った。けど、どうしてもサッカースクールをやりたいという大きな夢があった自分にとって、正直に言って引退後も楽しみだった。」

怪我している状態でもできることを精一杯に取り組みながら、セカンドキャリアに向けた準備も着実に進めていった。サガン鳥栖のサッカースクールを見学しに行き始めたのも、ちょうどこの頃からだったと言う。

谷口氏以外にも、選手生命を脅かす怪我が原因で引退を余儀なくされた選手は少なくない。しかし、早い段階からセカンドキャリアに向けて準備を進めていた場合と、まったく準備していなかった場合とでは、心の持ちようが違うのかもしれない。現役アスリートにとって、引退後に待っている長いセカンドキャリアへの展望は、選手時代のモチベーションや大きな希望となりうるのではないだろうか。

「パッパニーニョ」二宮寛氏との出逢いで目指す姿に辿り着く

写真:谷口氏提供

谷口氏がサッカースクールを立ち上げるにあたり、大きく影響を与えた出来事がある。それは、川崎フロンターレ時代に経験したJリーガーの職業体験だ。遠征先にコーヒーメーカーを持っていくほどのコーヒー好き谷口氏には、神奈川県葉山町にあるコーヒー専門店「パッパニーニョ」での職業体験が紹介された。

パッパニーニョのオーナーを務めるのは、元サッカー日本代表監督の二宮寛氏。そんなカフェで、谷口氏は窓拭きしたりコーヒーカップを出したりと、通常の従業員と同じような仕事を経験した。何事にも真面目に取り組む谷口氏は二宮氏から弟子のように可愛がってもらえるようになり、その後も交流を深めていった。

「パッパニーニョ」という店名は、二宮氏と親交があった元ドイツ代表ベッケンバウアーが名付けたもの。日本語で「お父さんと少年」という意味を持つ。谷口氏その店名の由来に感銘を受けるとともに、「まさに、自分の目指すサッカースクールそのものだ。」と感じたという。自分の話を一生懸命に聴いてくれた担任の先生のように、子どもたちと近い距離感で接していきたい。また、「お父さんと少年」のような関係性で子どもたちに多くのことを伝えていきたいという想いから、自身のサッカースクールを「パッパニーニョ サッカースクール」と命名した。二宮氏との出逢いが、谷口氏の目指すべきサッカースクールの姿を、より具体化させたと言って良いだろう。

故郷・横須賀への想いと今後の目指すべき場所

谷口氏はプロサッカー選手を引退し、少年時代を過ごした神奈川県横須賀市で2020年度にパッパニーニョ サッカースクールを開校した。自分を育ててくれた街へ恩返ししたいという想い。そして何より、大好きな横須賀でサッカースクールを開きたいという気持ちが強かったという。

目指しているのは、プロ選手を多く輩出するサッカースクールではない。大前提として、子どもが大人へと成長できるサッカースクールだ。自身を成長させてくれたサッカーを通じて、子どもたちが成功体験を積み重ね、人として成長できるスクールになることを目標としている。開校からこれまでの活動を通して、谷口氏は次のように語ってくれた。

「正直、最初の1年目は“やらせる”ことが精一杯で、コミュニケーションが思った以上に取れなかったことを反省している。コロナ禍で難しい時代ではあるが、イベントなども積極的に開催し、サッカー以外にも生きていく上での知恵や新たな学びを与える機会を設けていきたい。」

そもそも、自身でサッカースクールを経営すると決意したヴァイタリティは、どこから湧き起こったのか。それについて谷口氏は、笑いながら「まぁ、俺はギャンブラーだからね。常に緊張感のある環境で刺激のある日々を送りたい。」と話してくれた。現役時代、ボランチの選手としてはありえないゾーンで得点を重ねてきた彼のプレースタイルも、この言葉を聞くとなんとなく腑に落ちた。谷口氏がつくりあげるセカンドキャリアは、常に歩みを止めず、今後も前進し続けるだろう。

パッパーニョ サッカースクール

[著者プロフィール]

西口 遼(にしぐち・りょう)
1999年生まれ、サッカー歴15年のスポーツマンライター。これまでの競技経験で培った経験を活かし、スポーツ関連の記事を中心に執筆。日本サッカー協会公認の指導者ライセンス保有しており、技術指導も行っている。自身は社会人リーグでプレーする現役サッカープレーヤー。
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By New Road 編集部

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