仕事をしながらスポーツ競技にも取り組む『デュアルキャリア』。その道を歩むアスリートは少なくないが、多くは仕事との両立に苦戦し、伸び悩んで競技から離れていく。そんな中、「選手としてのキャリアに大満足です」と笑顔で語るのは、山梨県笛吹市役所に勤務する元ウエイトリフティング選手の中山陽介さん。中山さんは2016年のリオデジャネイロオリンピックに、日本代表として出場した実績を持つ。

しかし、オリンピックレベルの選手に成長したのは、2010年に公務員として働き始めてからのこと。フルタイムで勤務しつつ、仕事後に1人で練習していたというから驚きだ。中山さんはデュアルキャリアとして、どのような道を歩んできたのか。第一線から退いて約4年が経った今、当時のことを振り返りながらお話を伺った。

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競技を続けたのは「自分への挑戦」だった

中山さんが競技を始めたのは、全国最多優勝回数を誇るウエイトリフティングの名門・日川高校に入学した後のこと。学生時代の最高成績は高校でインターハイ5位、大学では日本インカレで2位。日本一になった経験はなく、大学卒業の時点でオリンピックを目指せる実力にはなかった。

しかし、社会人になっても32歳まで競技を続け、生涯のベスト記録は282キロ。もし、これを自身が12位で終わったリオオリンピックでも挙げていれば、8位に入賞していたほどの記録だ。大学卒業後も練習を続けた理由について、中山さんは次のように話してくれた。

※床に置かれたバーベルを頭上まで一気に持ち挙げる「スナッチ」と、肩まで引き挙げてから頭上に持ち上げる「クリーン&ジャーク」の合計重量で競う

「自分がどこまで記録を伸ばせるか知りたかった。自分への挑戦が目標だったんです。いつも『自分の限界はここじゃない。もっといけるはずだ。俺がどこまでいけるかを知りたい』と思って続けていました。」

社会人1年目、中山さんは民間企業へ就職した。しかし、不規則な就業時間によって練習との両立に苦しんだ。「生まれ育った笛吹市に広く貢献したい」という思いを胸に抱いていたこともあり、翌2010年には笛吹市役所に入庁して再スタートを切った。

入庁後もアスリートだからといって特別扱いはなく、他の職員と同じ労働条件で仕事に取り組んでいた中山さん。それでも練習を両立させられた大きな理由として、真っ先に“周囲からの支え”を挙げる。

「市役所職員1年目で、初めて日本代表に選出されました。そうすると、ナショナルチームの一員として、毎月2~3週間はトレーニング合宿をするんです。でも、ウエイトリフティングに専念している選手と違って、僕の場合は仕事があるので参加できません。だけど、上司や同僚が『仕事はカバーするから、合宿行ってきなよ』と言ってくれて。土日と有給休暇を組み合わせ、合宿に5日間参加できる週もありました。仕事以外では、土曜日の夜に友達が食事に付き合ってくれて、競技から離れた楽しい時間も心の支えになりました。」

「練習場に行く理由」をつくる

当時、中山さんは普段の練習に、日曜日と平日の1日をのぞく週5日を充てていた。終業後に母校の日川高校へ行き、周囲に誰もいない中で1人練習に取り組む。

あくまで自分軸で、楽しみながらトレーニングをしていた。しかし、仕事自体に慣れていなかった頃には、一度練習を怠ってしまったことがあるそうだ。そして、翌日の練習も億劫になり、負の連鎖に陥りそうになった。そこで考えたのが、3か月分のメニューを事前に作り込むことだったという。

「それまでは、練習場に行ってからメニューを考えていました。でも仕事していると、『練習場に行くこと』のハードルがそもそも高いんです。だから、先に3か月分のメニューを作り込むようにしました。3か月後の大会で100%の力を発揮できるよう、『この日は80%で練習するから、翌日は50%に抑えよう』というように逆算しながら、とにかく考え抜くんです。そうすると、メニューを作っている過程でどんどん自信が湧いてくるし、1日でもズレたらメニューがすべて無駄になるから、どうにかして練習しようと頑張るんですよ。」

中山さんの練習方法で特徴的なのが、1回の練習を1時間30分~2時間と短めにしていたこと。メニュー間のインターバルもそれまでの3分から1分30秒に短縮し、限られた時間の中で効率的にトレーニングをこなすようになった。自信を持って作ったメニューが土台にあるので、早く練習が終わっても「もっと追い込もう」とはならず、すぐに帰宅して回復に充てられる。練習メニューを作成し始めて3か月後には早速当時の自己ベストを記録し、自分のやり方への自信を深めていった。

ただ、どれだけ効率的に練習しても、加齢によって身体への負担のかかり方は変わる。中山さん曰く、ウエイトリフティング選手のピークは25~26歳。休日に身体のメンテナンスを怠らなかった中山さんでも、27歳を迎えた2014年頃から疲れが抜けにくくなったという。

しかも、2016年にはリオオリンピックが控えている。そこで、中山さんは2年間の休職を選択した。とはいえ、笛吹市役所では前例のないことであり、軽い気持ちで相談したそうだ。

「さすがに断られるだろうと思いつつ、『オリンピックまでウエイトリフティングに専念したいので、休職させてほしい』と頼みました。そうしたら、周囲のみなさんが快く受け入れてくださったんです。市役所の規則に沿って2年間を休職。その間は無給でしたが、東京のNTC(ナショナルトレーニングセンター)を拠点にしながら練習に集中しました。」

休職中に出場した、リオオリンピックの代表選手選考会にあたる全日本選手権大会。これが、生涯のベストである“282キロ”をたたき出した大会だ。同時に、彼の信じ続けた練習方法が、実を結んだ瞬間でもあった。

予期せぬ引退でも、残ったのは「満たされた心」

リオオリンピック本戦では、17名中12位と納得できる結果ではなかった。中山さんは、2020年東京オリンピックでのさらなる飛躍を目指して、歩みを加速させようとする。しかし、2年後に待っていたのは、意図せぬ形での現役引退だった。

「自分が納得できる記録を出すことが目的だったので、正直、オリンピックの順位はそこまで意識していませんでした。でも、いざ出場すると上位を目指したくなるもの。東京オリンピックで良い成績を出すために、当時痛めていた手首を手術しました。ところが、手術後に手首の可動域が狭まってしまい、スナッチが思うようにできなくなったんです。僕自身にどこか甘えがあって、手術後のリハビリを全力でできていなかったのかもしれませんね。」

そして2018年、中山さんはウエイトリフティング選手としてのキャリアに幕を下ろす。予期せぬ現役引退だったが、胸中にあったのは“充足感だけ”だったという。

「公務員として働きながら練習を続け、記録を伸ばし続けることができました。今も当時も、悔いはまったくありません。選手としてのキャリアに大満足です。」

デュアルキャリアを図る周囲のウエイトリフティング選手は、そのほとんどが実力を伸ばせないまま競技から離れていったそうだ。周囲と自分の違いについて、中山さんは“原動力の違い”が大きいと推測する。

「『大会で●●位』『この人に勝つ』など自分の外に原動力があると、両立が難しくなりやすいかもしれません。自分の中に不安や迷いが生じたときに、ネガティブな気持ちが大きくなりやすいし、外からの目線も気になってしまいますから。僕の場合は、自分で作った練習メニューで自己ベストを出すことが一番の原動力でした。だからこそ、長続きしたのだと思います。」

大切なのは「応援される人でいること」

中山さんは笛吹市役所で主に教育委員会へ配属され、教育総務課では施設営繕、生涯学習課では山梨インターハイや東京オリンピック関係の業務を中心に担当した。そして、2022年4月からは観光課で街の活性化に向けて励んでいる。中山さんによれば、ウエイトリフティングの競技者であることが、仕事にも好影響をもたらしていたそうだ。

「仕事への好影響として一番に挙げたいのは、行動力です。例えば教育委員会に所属しているときは、よく学校から『施設が壊れたから見に来てくれませんか』と連絡がありました。そんなとき『今行きますね』と、すぐに行動に移していたんです。練習時間を確保するには、終業時間内でいかに素早く業務をこなすかが重要ですから。いつも、ポジティブな意識で仕事に取り組んでいましたね。」

アスリートは、競技引退後に社会人1年目として働くケースも少なくない。しかし、中山さんにはデュアルキャリアを通じて、社会人として培ってきた経験や繋がりがある。これからは市役所職員として、オリンピアンの立場を生かしたPRをしたり、他地域との橋渡し役になったりと、自身の経験も武器にしたいと考えているそうだ。コロナ禍で予定していたイベントがなくなったときは、講演会を開催したこともあるという。

また、現在は中学生を中心に、ウエイトリフティング選手の育成にも力を入れている。中山さんが積み重ねてきた知識や理論は、脈々と若い世代に受け継がれていきそうだ。

最後に、中山さんはデュアルキャリアを両立させるために大切な姿勢について語ってくれた。

「自分自身が『応援される人間であること』が大切なのかなと思います。今振り返ると、誰かから求められているわけではなく、僕が勝手にウエイトリフティングをしていただけ。それなのに、周囲のみなさんが温かくサポートしてくれたんです。仕事で手を抜いたり、尊大になったりせず、ひたむきに努力する。そのような姿勢でいると、周囲が手を差し伸べてくれるのかもしれません。」

中山さんが築いてきたキャリアは、自身を支えるための“いしずえ”として確かにそこにある。これからの道のりも、中山陽介らしい芯のある足取りで進んでいくのだろう。

中山陽介(なかやま ようすけ)

山梨県笛吹市で生まれ育ち、現在は笛吹市役所に勤務。2016リオデジャネイロオリンピックの重量挙げ男子62キロ級に出場した実績を持つ。現在は、指導者として主に中学生へウエイトリフティングを教えている。

By 紺野 天地 (こんの てんち)

スポーツを専門ジャンルの1つとするフリーライター。「熱量を伝えること」を信条としており、その人ならではのストーリーや取り組みを取材している。取材記事のほか、エッセイやコラムも執筆。

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