©2021小林海青

都内で月一回オープンする、間借りのサラダ屋さん「Love Salad」。完全予約制で、すぐ満席になってしまう。お店を切り盛りするのは、元水泳選手の海老沼忍さん。お店の扉を開ければ、弾けるような笑顔で迎えてくれる彼女の姿は印象的だ。両手ほどのサラダボールに、色とりどりの旬の野菜と果物。さらにナッツなどが散りばめられ、味わいはもちろん目にも鮮やかなサラダは、食べる前から心を弾ませてくれる。

「私はこのサラダを食べ始めて、体調も良くなって元気になりました。水泳で体調を崩していたときに知っていたら、違っていたのかなとも思います。今は色んな人にこのサラダを食べてもらって、『こんなに体って元気になるんだ』『心って変わるんだって』と食の幸せを感じて欲しいんです。」

小学生から水泳にのめり込み、五輪出場を目指してきた忍さん。大手飲料メーカーに勤めている彼女が、間借りのサラダ屋さんを営むまでのお話を伺った。

目次

水泳が楽しかった幼少期から、夢が遠のくのを感じ始めた高校生時代

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気管支喘息だった忍さんは、「体を強くさせたい」と願う親に連れられて水泳を始めた。体を動かすのが大好きで活発だった忍さんは、水の面白さにすぐ溶け込んだという。運動神経が良かったこともあり、50m自由形のスプリントでもトップに食い込む活躍を見せ、スピード勝負で0コンマ何秒の差で勝つ喜びを全身に噛み締めていた。

自分の頑張りを家族や周りの人が喜んでくれる姿がただ嬉しかった当時から、「水泳は人を喜ばせるためのツール」と考えていた忍さん。しかし、同レースで自分に負けた選手の悲しそうな姿は、見たくなかったと言う。

「アスリートに向いていないですよね…。きっとその頃から、私は愛や温かさで生きていきたいっていうのがあったのだと思います。」

中学生になり、全水泳選手を対象とした日本ランキングで8位にラインクイン。中学3年生でランキングに入ったことで、初めて「五輪出場で、みんながもっと喜んでくれるのなら」と夢の舞台・五輪出場を視野に入れる。しかしその躍進の裏には、日々の積み重ねがあった。小学生の頃から学校に行く前の早朝530分〜730分に練習を行い、学校が終われば夜練習に向かう。帰宅はいつも2122時だ。そんな休みのない日常の楽しみは、食べることや好きな音楽を聴くことだったという。

実家は精肉店で、三代目の父は口調こそ強くとも笑顔で家族を大切にする大黒柱。そして母は、家族を支える縁の下の力持ちだった。あるとき忍さんは、その好成績を妬む同級生からの嫌がらせで悩んでいた。そのとき水泳を辞めたいと母に漏らした際、掛けられたのが「何しに水泳をやっているの?」という一言。この言葉で五輪出場への思いをより強固にし、「もう、私は大丈夫」と背筋を伸ばして再び競技に邁進した。

そんな忍さんに転機が訪れたのは、高校一年生の頃。月経が始まり、極度の貧血と腰痛を伴う体調不良で、練習強度が上がるにも関わらず練習についていけない苦しい時期があった。成績も振るわず、五輪出場の夢が遠のくことを感じ始めたときに「水泳しかない自分」を見つめ直す。「水泳にすがらない自分」を形づくる道の模索は、すでにこの時期から意識し始めた。水泳に注ぎ切れない熱量はすべて勉学に注ぎ、高校は首席で卒業。そして、早稲田大学スポーツ科学部へ進学する。

水泳選手ではなく、社会人としての道を選んだ

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大学でも水泳は続けた。しかし日本大学生ランキング8位に食い込むものの、五輪への道は厳しいことを実感する。常に将来のキャリアについて競技と並行で考えるものの、水泳選手として表面的に見えてくるものは、花形のスポーツキャスターや水泳の指導者など。水泳は人を喜ばせるためのツールと捉えていた忍さんは、実業団から誘いもあったものの、「より社会にインパクトを残せる自身でありたい」と2014年に社会人としての道を選択する。

大手飲料メーカーを就職先に決めたのは、企業理念への共感だった。会社の思いに共感しなければ、共に走ることはできない。根幹に「人と愛」を大切に思う、忍さんらしい決断である。忍さんは「圧倒的な成果・結果を出した経験」「0から何かを創り出した経験」を重点的に見る、“No.1(ナンバーワン)選考”で採用された。就職先では同じようにNo.1選考で採用された異種目で活躍した人たちとも出会い、企業理念に向かって共に働くことの喜びを知った社会人としての一歩目だった。

副業解禁で始めた、間借りサラダ屋さん「Love Salad

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「自分が想像していた以上に反響をいただいているんです。『体調が良くなった』とか、『こんなに美味しいサラダを食べたことがない』とか。私は主役にならなくていいんです。Love Saladは、みんなが幸せになれば。」

勤め先が副業を解禁したことから、兼ねてから興味があった飲食店を始めたのは20211月のこと。忍さんの作るサラダは体調に合わせたオーダーメイド式。栄養面を整える知識の源は、家族の不調をきっかけに学んだホリスティックヘルスの要素だ。ホリスティックヘルスとはウェルネス分野の権威であり、食事やライフスタイル、エクササイズ、ストレス・マネジメントなどのアドバイスを通して、人々を健康で幸せに導く学問である。

忍さん自身も朝から晩まで働く中、倦怠や眠気を感じたり、モチベーションが下がったりすることがしばしばあった。しかし改善を試み、健康に良いと言われていることはすべて自分で試し、行き着いたのが一杯のサラダだったという。栄養面を整えたサラダを1年間にわたって毎日食べ続けたとき、疲れ知らずでエネルギッシュに働ける変化を実感。

「これは私だけでなく、多くの人へ届けなきゃ。」

人の笑顔が大好きな忍さんは「人を幸せにしたい」という思いと共に、サラダを届ける間借りサラダ屋さん「Love Salad」をスタートさせたのである。

開店前には何軒もの飲食店をはしごし、ミシュラン店にも一人で訪れるほど味の研究を重ねた。「Love Salad」には小さい頃から食べることが大好きだった思いや、学んできたウェルネスのエッセンスがすべて凝縮されている。

もちろん食材にもこだわりが。「日本の良さを伝えたい」「いただきます・ごちそうさま・ありがとうを当たり前にしたい」など思い入れのある農家から、なるべく無農薬や減農薬の食材を仕入れているという。地球環境問題でもあるフードロスにも意識を向け、完全予約制にしているのも食材が余らないようにするための工夫だ。

さらにサポートスタッフには、元サッカー選手などアスリートが揃っている。「アスリートたちが競技以外の世界にも身を置ける場所を作りたい」という、忍さんの思いに集まった人たちがお店を盛り上げているである。

セカンドキャリアではなく“セカンドライフ”という考え方

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「私はセカンドキャリアではなく、セカンドライフだと考えています。キャリアとか肩書きにこだわらず、一度真っさらにして一生無邪気に挑戦したいことに挑戦していきたいんです。サラダも私が無邪気に行動を起こしたから、みんなに喜んでもらえています。私はサラダで温かい愛の世界、ありのままでいることが素晴らしいっていうことを伝えていきたい。日本って『愛してる』『好き』って言うことに、ちょっと抵抗がある文化がありますよね。でも私は、もっと当たり前に言えるようになったらいいって思うんです。私は好きや愛を抑えられない。だから年中無休で『愛してる』『好きだよ』って伝えています。」

そう話す忍さんの“挑戦したいことリスト”には次のような内容があり、これからに向けた夢はますます広がる。

  • サラダ文化の最先端である米国・ニューヨークに行き、サラダを食べて健康づくりや病気予防している食文化を視察する
  • フルーツの種類が豊富でタコス料理のあるメキシコの食文化に触れ、そのエッセンスをサラダに落とし込んでいきたい

「泳いでいるときは心地いい感覚で水に入り、水と体と呼吸のリズムで泳いでいました。水と一体化して、鼻歌を歌っているような感じです。練習や試合の前は、目を閉じて意識を“今”に向けることができるマインドセットが上手かったんだと思います。その繊細な感覚が、今こうしてサラダに落とし込めているんだと思います。」

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競技者には、その競技を失うことの恐怖を抱えている一面がある。競技する現在に、失うかもしれない未来を考えながら競技することは容易なことではない。しかし競技の枠を一度外し、「一体何に喜びを感じるのか」と問うことで浮かんでくる共通項の先に、忍さんの話す“セカンドライフ”が見えてくるのかもしれない。

海老沼 忍(えびぬま しのぶ)

1992129日生まれ。6歳から水泳を始め、1222歳まで国体出場、Jr.オリンピック・全国大会で入賞・メダル獲得。オリンピック準強化指定選手に任命される。勉学において推薦で入学した千葉商科大学附属高等学校を首席で卒業し、早稲田大学スポーツ科学部に入学。在学後、スポーツ心理学や栄養学をメインで選考。早稲田大学卒業後は大手飲料メーカーに勤め、最優秀営業賞や社長賞を受賞。現在飲料メーカーを勤めながら、Love Salad(間借りサラダ屋さん)オーナーシェフ、オンライン料理教室、オンライン栄養指導などを行う。

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[著者プロフィール]

たかはし 藍(たかはし あい)
元初代シュートボクシング日本女子フライ級王者。出版社で漫画や実用書、健康書などさまざまな編集経験を持つ。スポーツ関連の記事執筆やアスリートに適した食事・ライフスタイルの指導、講演、一般向けの格闘技レッスン等の活動も行う。逆境を乗り越えようとする者の姿にめっぽう弱い。
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By New Road 編集部

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