病気、そして大怪我という二度の長期離脱。そして、所属チーム解散という困難な状況に遭遇しながら、今もなお現役選手としてプレーを続けている女子サッカーの大美賀華子選手。物心がつく前からボールを蹴っていた少女は、いつしか「サッカーが大好き」になってのめり込んでいった。自分が上手くなるために必要なことを常に考えていたが、その競技人生は試練の連続だった。高校時代に怪我に苦しんだこと。そして、なでしこリーガーになってから病気を患ったことで、自身のサッカーに対する想い、競技を続ける理由は少しずつ変わっていったという。

大美賀選手がこれまで歩んできたサッカー人生や、これから目指すもの。また、現役選手としてサッカーを続ける理由やその原動力など、詳しくお話を伺った。

目次

幼少期からボールを蹴ってきた

大美賀選手がサッカーを始めたのは、2人の兄の影響だった。

「6歳と8歳離れた兄がいるんですが、その2人が地元のサッカー少年団に通っていました。私は2~3歳の頃から兄の送迎に母と一緒に行っていて、物心がついていない頃から裸足でボールを蹴っていたんです。私が小学生になるとき、母が運動不足にならないようにと同じ少年団に入れてくれたのが、サッカーを始めたきっかけです。」

小学校中学年になると、男子チームである『JSC CHIBA』とは別に女子チームの『千葉中央FC』にも入り、掛け持ちでプレーしていた。さらに、中学生の頃は部活動も加えて3チームに所属していたという。それには、明確な理由があった。

「今より女子チームが少なかったのも理由ではありますが、男子チームでも試合に出させてもらっていました。また、女子チームにはない男子のパワーやスピードの中でも負けたくないという、負けず嫌いな部分もありましたね。自分に対して挑戦したい、男子にも負けずに試合に出たいという気持ちが一番にあったんです。その方が、もっと上手くなるんじゃないかと思って選択していました。」

中学生の頃から、自分がサッカー選手として成長するため必要なことを常に考え、自ら環境を選択していた大美賀選手。男子の中で練習することに、戸惑いはなかったのだろうか。

「怖さはなかったですが、毎日必死でしたね。持久力では勝てても、短距離のスピードでは勝てない。だから、自分の武器である技術面で勝てるように練習していました。」

名門高校に進学するも怪我に悩まされる日々

高校の進学先として選んだのは、女子サッカーの名門である十文字高校だった。中学校時代のプレーが評価され、サッカー部の石山隆之監督が直々に声をかけてくれたのだ。

「十文字高校は強豪校だったので、自分が行けるとは到底思っていませんでした。サッカーはもちろん続けたいと思っていたものの、同じくらい勉強も頑張りたいと考えていたんです。たとえ怪我などでサッカーができなくなっても、困らないような大学に進学できたらなと思っていたので。十文字高校は進学校で、そういう面でもありがた過ぎる環境だと、二つ返事で入学を決めました。」

他にも千葉県内を含む多くの高校から誘いがあったが、サッカーと勉強を両立できる十文字高校は大美賀選手にとってベストな進学先だった。しかし、通学時間は千葉県内の自宅から片道2時間。それを3年間も続けたわけだから、決して楽なことばかりではなかった。

「過酷でしたね。通学もそうですが、とにかく練習と勉強の両立が大変でした。偏差値の高い高校で、勉強は予習しないとついていけないレベルということもあり必死です。一方、サッカーも1日でも練習を休んだらすぐにポジションを奪われてしまうような環境。ですから、毎日が戦いでした。」

強豪校で部員数も多かったが、1年生から試合に出場していた。自身のことを「秀でた能力はないけれど、どのポジションでもこなせることが強みです」と話すように、大美賀選手は試合や対戦相手、状況によってさまざまなポジションをこなす。

「最高成績は1年生のとき、全日本高校女子サッカー選手権での全国3位です。この頃が一番試合に出ていました。2~3年生の頃は無理し過ぎて、怪我と復帰を繰り返していたんです。高校生活の後半は怪我に悩まされ、思うようにサッカーができませんでした。」

高校生活は良いことばかりではなかった。怪我の影響もあり、試合に出られず悔しい思いをしたことも。それでも3年間ずっとサッカーと勉強を頑張れたのは、仲間の存在があったからだ。

「本当に、高校時代の仲間たちに恵まれたおかげで頑張れました。仲間たちがいるからこそ、どんなときでもあきらめず、自分自身に負けずにいられました。オフの日も会うくらい仲が良くて、学校でも遠征でも一緒でしたし、たくさん仲間に救われましたね。」

人として成長できた順天堂大学での4年間

大美賀選手が高校卒業後に選んだ進路は、順天堂大学への進学だった。女子サッカー部はあったが、当時は大学サッカーの名門というわけではない。強豪大学には進まず順天堂大学を選んだのには、大美賀選手ならではの考えがあった。

「大学でもサッカーを続けたい気持ちはありましたが、同時に教員免許を取りたいと思っていました。行きたい大学を探していて、順天堂大学を知った1ヶ月後には出願し、スポーツ推薦で受かることができました。当時は教員の合格率が私学で一番だったので、それも決め手になりましたね。また、高校では満員電車に乗りすぎて人に疲れてしまったので、自然の多い田舎にある大学という点にも惹かれました。生徒数がそこまで多くないので、色んな人と繋がりができそうというのも決め手の一つです。」

自分が求めていることと、将来のことを考えての選択だった。高校1年生から試合で活躍していたのだから、高卒でなでしこリーグのチームに加入という選択肢もあったのだろう。それでも、大美賀選手が選んだのは大学への進学だったのだ。

「当時のなでしこリーグは、まだ環境が整っていませんでした。ですから、それよりも大学に進んでサッカーができたらいいなと思ったんです。仮になでしこリーグに行き、怪我などでサッカーがなくなったときに、自分に何ができるのかという不安もありましたね。高校2~3年生で怪我を繰り返した経験から、将来についての考え方が変わった部分があったのだと思います。いつ、サッカーができなくなるか分からないなと。そうなったとき、これまで続けてきたスポーツに関係する教員の選択肢や、サッカー以外の強みを作っていきたいと考えました。」

順天堂大学の女子サッカー部は、部全体のレベルが高いわけではなかった。チームメイトには、大学からサッカーを始めた選手もいる。それでも、その環境だからこそ得られたことがあった。

「初心者から競技としてずっとやってきた人まで、色んなレベルの選手がいました。正直に言えば最初は戸惑いもありましたが、それでもみんなと一緒に目標を達成する、勝利に向かって挑んでいく中で、学ぶことはとても多かったです。今の考え方の土台になっているのは、間違いなく大学4年間での経験です。たくさん考えて、とことん色んな人と話して新たな価値観や考え方を知ったからこそ、サッカー選手としてはもちろん、一人の人間として成長できました。」

病気、そして怪我という2つの試練

教員になる選択肢のほか、青年海外協力隊にも興味があったという大美賀選手。しかし、今しかできないことが何かを考えたとき、サッカーを辞めるという選択肢はなかったそうだ。大学卒業後は、当時なでしこチャレンジリーグに所属していた『大和シルフィード』に加入。それまで順天堂大学の女子サッカー部には、卒業後も第一線でサッカーを続けている先輩はいなかった。

「自分がサッカーを続けることによって、同じ想いを持つ後輩たちに新たな選択肢ができるのではないかと思いました。」

順調なサッカー人生を歩んでいた大美賀選手だったが、突然の試練が訪れる。可逆性脳血管攣縮症候群という病気を患い、サッカーができなくなってしまったのだ。

「立つこともできないし、私生活も上手くできない状態になってしまいました。サッカーも仕事もできなかったです。自宅で安静にしていなければならず、アドレナリンが出てはいけないので、テレビでスポーツを観ることもできませんでした。」

なでしこリーグのチームに入団し、これからというタイミングで病気になってしまった。このときの辛さは測り知れないものだっただろう。それでも少しずつ回復していく中で、前向きに考えられるようになっていった。

「病気にはなりましたが、サッカーを辞めるという気持ちにはなりませんでした。親はもちろん、ファンの方もすごく心配してくれたんです。だからもう一度、自分を応援してくれている人たちを笑顔にしたい。その思いが強くなりました。」

病気を克服し、環境を変えたいという思いがあったことから、トライアウトを受けた大美賀選手。熱心な誘いがあった静岡県の『ルクレMYFC』へ加入し、2年間プレーした。チームを東海リーグ昇格へ導き、その後は2017年に新設された『栃木SC』へ移籍加入。そこで3年間プレーしたが、チームは不祥事によって解散してしまう。そんなとき手を差し伸べてくれたのが、現在も所属している『FC QOL MITO CIRUELA(水戸シルエラ)』だった。栃木SCで叶えられなかった目標を、今度は水戸で叶えるべく水戸へと移った大美賀選手。しかし、ここでも試練が立ちはだかる。

「試合中に顔を切ってしまったんです。相手とヘディングの競り合いになったとき、顔と顔が当たって縦に7cmくらい切れてしまい、10針縫いました。半年間は日焼け禁止と言われたので、サッカーができないことに。水戸に来てまだ2ヶ月だったので、絶望的でしたね。」

新天地で頑張ろうとしていた矢先の大怪我。トラウマになりかねないものだったが、それでもサッカーを辞めようという考えはなかったそうだ。

「最初は怖過ぎて、サッカーができないかもしれないと思いました。それでもトレーニングしなければ、やりたくなったときコンディションや筋力を上げるのに時間がかかってしまいます。一度、自分の感情とは切り離して、やりたくなるかもしれないからトレーニングを始めよう、身体だけは作っておこうと取り組んでいたら、自然と復帰したいと思うことができました。」

サッカーに対する強い思い。そして、何よりも応援してくれる人たちに、ピッチの上で恩返ししたいという気持ちがあった。大美賀選手を動かしているのは、自分ではなく誰かのためにプレーするという想いだ。

サッカーも仕事も100%で取り組む

現在、大美賀選手は水戸市役所の高齢福祉課で運動指導員として働きながら、水戸シルエラのサッカースクールでコーチとして子供たちを指導している。このサッカースクールの仕事を引き受けた理由を、次のように教えてくれた。

「私が加入した年に、水戸シルエラのサッカースクールが開校しました。当時の監督から一緒にコーチをやってくれないかと言われ、監督と2人でコーチすることに。立ち上げて3年目の今は、私が一人で指導しています。その一番の理由は、チームのことをより多くの人に知ってもらうことですね。これは、私がサッカーを続けていく上での目標でもあります。なでしこリーグのチームであれば、知られる機会や露出は多いでしょう。しかし、地域リーグのチームは知られる機会が少ないんです。地域の方から愛されるチームになるために、何ができるのか。そう考えたとき、スクールなどの地道な活動を続けていくことで、一人でも多くの人にチームを知ってもらえたらなと思いました。」

チームのことを知ってもらうことは、地元で応援してもらうために必要不可欠だ。教員免許を取得していることからも、人に教えるという仕事には興味があった大美賀選手。コーチの仕事には、やりがいを感じているという。

「毎回自分で考えてメニューを組んだり、実際に指導したりしていく中で、指導力が高まったと感じます。また、子供たちの純粋さや素直さ、どんどん成長していく姿からは、私自身が学ばせてもらうことや感じることも少なくありません。指導することが、自分自身の競技にもプラスに繋がる部分があると思っています。」

人に教えることで、自分の中でもサッカーの基礎や原理原則を再確認できるのだ。そして、大美賀選手は子供たちを指導するとき、大切にしていることがあると話してくれた。

「純粋にサッカーを楽しんでもらうことです。スクールとして会費を頂いているので、楽しみながら少しでもサッカーが上手くなるよう、一人一人に合わせてアプローチするようにしています。また、人間性と協調性も大切ですね。仲間と協力したり、ちゃんと挨拶したりできるようになってほしいので、そういうことはしっかり伝えています。」

地域リーグでプレーする以上、プロという環境ではない。仕事をしながら練習し、そして試合もこなす。精神的にも体力的にも厳しさはあるが、それでもサッカーを続けているのはなぜなのだろうか。

「プロじゃなくても、競技を諦めずに続ける女性が一人でも多く生まれる世の中であって欲しいです。そのために私自身がデュアルキャリアを両立し、ロールモデルとなっていきたいと思っています。そして、私にとって人生の目標は、これまでお世話になった人たち、そしてこれから出会う人たちを笑顔にすることです。」

幾度となく苦境に立たされながらも、サッカーを辞めずに続けてきた大美賀選手。自分のためから、人のために。これからも、できる限り長くサッカー選手を続けていきたいという。大美賀選手の挑戦は、まだまだ続いていくようだ。

大美賀 華子(おおみか はなこ)

兄の影響でサッカーを始め、なでしこリーグを経て、現在地域リーグで活躍している女子サッカー選手。脳血管の病気、顔を切る大ケガを経ても復帰し、応援してくれる人を笑顔にするために現役選手として今も走り続けている。現在はサッカー選手としてだけではなく、高齢福祉課の運動指導員やサッカースクールのコーチとしても活躍している。

By 渡邉 知晃 (わたなべ ともあき)

1986年4月29日生まれ。福島県郡山市出身。元プロフットサル選手、元フットサル日本代表。Fリーグ2017-2018得点王(33試合45得点)。プロフットサル選手として12年間プレーし、日本とアジアのすべてのタイトルを獲得。中国やインドネシアなど海外でのプレー経験もある。現役引退後は子供へのフットサル指導やサッカー指導、ABEMA Fリーグ生中継の解説を務め、サッカーやフットサルを中心にライターとしても活動している。

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