フルマラソン(42.195キロ)を走るランナーたちの間で、「30キロの壁」という言葉がよく使われる。スタートしてから30キロ辺りでスタミナが切れたり痙攣を起こしたりし、急激にペースが落ちるか、最悪の場合はレースの棄権を余儀なくされるランナーが多いのだ。これについては、英語にもよく似た表現がある。長距離ランナーやサイクリストが、突然の疲労感やエネルギー不足でペースを保てなくなることを“Hitting the wall”と呼ぶ。偶然ながら、ここでも「壁」という単語が使われている。フルマラソンに限らず耐久系スポーツ全般で使われる言葉なので、「30キロ」という具体的な数字は入らない。

どうやらレース後半に、目に見えないが乗り越えなくてはいけない「壁」があるという認識は、世界的に共通しているようだ。この「壁」について、膨大なデータを駆使して解析した研究(*1)がある。

*1. How recreational marathon runners hit the wall: A large-scale data analysis of late-race pacing collapse in the marathon.

大都市フルマラソンが一般に公開しているレース結果データを集計し、「壁」が発生しやすいタイミングや傾向をランナーの性別、年代、ランニング歴などの切り口から探ったものだ。すると、男性ランナーに「壁」がやってくるのはスタートしてから29.6キロ、女性ランナーの場合は29.3キロという結果が出た。やはり30キロという距離は、現実的に多くのマラソンランナーを苦しめているようだ。

目次

一般に公開された膨大なデータから浮かび上がった「壁」

この論文を発表したのは、コンピューター科学者であり市民ランナーでもあるバリー・スミス氏個人である。アイルランド国立大学ダブリン校教授のスミス氏は、自身の趣味と職業上の専門知識を重ねて、マラソンのデータを用いた様々な解析結果を数年前から発表している。

今回ご紹介する「壁」についての研究で、スミス氏は2005年から2019年までの間に世界中で行われた、250以上に及ぶフルマラソンレースの結果410万件を解析対象とした。述べランナー数は270万人である。そのすべてにおいて、5キロごとのスプリットタイム及び最後の2.195キロのタイムを調べた。そうしたデータは、レースの公式ウェブサイトで一般に公開されているものだ。しかし、当然ながら形式はサイトによってさまざまである。あるときには情報が欠落しているし、また、あるときには重複していることも。スミス氏の苦心は信頼性のあるデータを判別し、それらを統一した形にまとめるクリーニング過程にあったと、自身のブログ(*2)で述べている

*2. How Marathon Runners Hit the Wall.

スミス氏はさらにデータを整理し、複数のレースを走った71万7000人のランナーを特定した。これは、個人ごとのパフォーマンスを時系列的に比較するためである。そして、自己ベストタイムを出したレースの前後9年間に渡るタイムの変遷に着目した。研究の目的である「壁」について、スミス氏は次のように定義している。

25キロ地点からゴールまでのスプリットタイムのうち、5キロから20キロまでのそれより20%以上遅くなった5キロ区間がひとつ以上あったとき、そのランナーは「壁」の影響を受けたというものである。つまり、レース後半に大きく失速したか、否かで判別したわけだ。具体的な例で計算すると、レース前半を1キロ6分ペース(ゴール予測タイム:4時間12分)で走っていたランナーなら、平均5キロ間スプリットタイムは30分。そのランナーが後半になってから、1キロ7分12秒(5キロ間スプリットタイム36分)より遅いペースに落ちてしまうことを「壁」に当たったとする定義だ。

性差による違い

  • 壁が発生する確率:男性28%、女性17%
  • 壁が発生するタイミング:男性29.6キロ、女性29.3キロ
  • 壁が持続する距離:男性10.7キロ、女性9.6キロ
  • 失うタイム: 男性31.5分、女性33.2分
  • 失うタイムの相対的割合:男性40%、女性37%

総合すると、男性も女性も壁にあたるタイミングは30キロ付近でほぼ差がないが、発生する確率は男性の方が高い。そして、壁にあたった場合のダメージも、相対的に男性の方が大きい。女性ランナーは壁に当たりにくく、当たったとしてもタイムへの影響を少なくできる傾向があるようだ。

ランニング歴による違い

自己ベストタイムを出したレースから、3年以前までがもっとも壁に当たりやすい。その3年間で男性の40%、女性の28%が壁を経験する。それより前の4~9年前になると、その数字は男性(26%)、女性(16%)と低くなる。そして、自己ベストタイムを出した後の3年間は男性(32%)、女性(21%)とやはり低くなる。

まったくの初心者ではなく、ある程度タイムを狙って走るようになったランナーが壁に当たりやすいようだ。しかし、その壁をいったん乗り越えてしまえば、再度発生する確率は低くなる。

レースによる違い

平均完走タイムが遅いレースほど、壁が発生する確率が高くなる傾向も発見された。例えば、平均完走タイムが3時間59分のボストンマラソンでは全ランナーの29.81%が壁に当たり、4時間53分の東京マラソンでは46.95%である。もちろん、壁があるから平均タイムが遅くなるのか、遅いランナーが多いから壁が発生するのか、その因果関係を単純に判別することはできないかもしれない。

スミス氏の結論

今回の膨大なデータを用いた研究結果は、以前からの通説や小さいサンプルによる研究結果と大きく逸脱するものではない。しかし、「壁」の傾向や危険度を性別や走力などの多方向から理解することは、ランナーたちのレース対策に役立つだろう。

By 角谷 剛 (かくたに ごう)

アメリカ・カリフォルニア在住。米国公認ストレングス・コンディショニング・スペシャリスト(CSCS)、CrossFit Level 1 公認トレーナーの資格を持つほか、現在はカリフォルニア州内の2つの高校で陸上長距離走部の監督と野球部コーチを務める。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。